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新年を迎えるにあたり

前回の仏器磨きを終え、各御堂の掃除です。 

各御堂のすす払い。 上の方からほうきや竹のすす払いを使い、高いほこりを下へ落として行きます。

この作業も2日かかります。 室内の物品を一旦外へ出し、すすをはらいます。 

ホコリとの格闘ですのでマスクは必需品です。

1年でたまるホコリもすごい量になり、上から降ってきますので避ける事ができません。 

すす払いをしたら一旦簡単に掃除機をかけます。(一応お寺でも掃除機は使います。

次に窓拭きです。延壽院には窓が結構あります。だいたい家の10陪くらいです。

濡れぞうきんにワイパーを使い、窓ふきスプレーで拭いていきます。そして、新聞でもう一度拭きます。

新聞はすごい便利で水垢も綺麗に拭きとってくれますので大変便利です。  

窓ふきも1日かかります。正直窓ふきが一番きついかもしれません。笑 

掃除しているとこんな物を発見しました。 

籠

ちょっとわかりづらいかもしれませんが、これは籠といわれる物です。 

籠


昔は和歌山城の城主や檀家さんの家に行くときは住職がのっていた籠です。

昔の歴代住職は小柄? 

歴代住職の掛け軸
歴代住職の掛け軸です。 みなさん小柄で太っていません。納得。 

昔の僧侶は結婚できません。ですから師匠から弟子でみなさん養子です。
きっと食も精進料理だったので太らなかったのでしょうか。

私も痩せていますので中に入ってみましたが結構せまいものです。壊すと大変ですのでそっとしまいます。 

 






2014.01.21 Tue l 未分類 l コメント (0) トラックバック (0) l top
新年を迎えるにあたり

脇机の仏器 本堂
                 本堂の脇机の仏器 

荘厳されら仏器 本堂
                   本堂大壇の仏器  
綺麗に灯される 大壇
                     燈明の光と仏器
 


延壽院ではお正月を迎えるにあたり、本堂、摩利支天堂、大師堂、庫裏、境内、地蔵堂、位牌堂、納骨堂
などの大掃除を行います。


各御堂の掃除を終えるまで約1か月程かかります。 

まず、最初に仏器を磨きます。仏器とは仏様を勧請し供養や祈願をする為の道具です。

この仏器は真鍮でできていますので、磨いてから約2か月程度で金色から錆びた色に変色します。

変色する度にピカールという洗浄剤を使い雑巾で磨きます。磨いた仏器をさらに新しい雑巾で2度磨きます。

大切な法具になりますので、汚い雑巾は使えません。 

磨きあがった仏器をお供えする時は私自身も清浄になった様に感じます。

みなさんが自分の部屋を綺麗に掃除をすると気分が良くなったり気持ちが晴れ晴れしませんか?そんな気持ちです。

全部の仏器を磨くのにだいたい朝から晩まで2日程度かかります。 

昔、「師匠に荘厳は信心を表す」からお寺は常に綺麗にしろ!!と怒られました。

1つの仏器を磨くのに真鍮が自分の顔が映り、光るまで磨き続けろと言われました。

仏器は汚くなれば、なかなか綺麗になりません。何百年も使用し、金色に保つには定期的に磨きをかけます。

私は師匠の寺で仏器を磨いていたら、それは下用雑巾だと怒られました。 

下用雑巾? どういう事だ?

下用とは自分が歩く場所や仏さまをお祀りするお堂以外の場所で使う雑巾の事です。

最初は私も知らず下用雑巾を使用し、教えていただきました。 

上用雑巾で仏器を磨きなさいという教えでした。 上用とは仏様のお祀りしているお堂の中でも綺麗な場所

を拭く雑巾の事です。 そんな雑巾があるとは……  みなさんの家では仏壇専用の雑巾ということです。 

お寺の御堂や境内をきれいにすることは住職の信心が問われます。 

お寺が汚いと住職の信心が無い事を意味します。 ですから掃除から荘厳まで綺麗にします。 

綺麗に保つとは一つの供養であり、自分自身の御身を心をきれいに磨くことであります。

師匠はいくら僧侶といったって人だから清浄な心も悪しき心も持つものだ。

だから僧侶は下座や掃除を心がけ、自分の心をいつまでも磨き続けろと教えられました。 

掃除する心や手を合わす心を毎日していると自然と悪しき心、悪いことも考えなくなるからと教わりました

師匠は私に悪しき心や悪知恵をすぐに辞めることはできるか?と問いました。 

無理です。と私は答えます。

人は欲もあり、悪い智慧を考えることができる分すぐにはなかなか捨てられない。

悪いことだと分かっていても考え、行動や言動にでる。 

だけら掃除や手を合わせる事により仏様と向き合うことにより、自分の心を磨き、段々自分の中で善悪を判断

できる様になると教えてくれました。 

そして、お正月はお参りの方が多く手を合わせにこられる。

手を合わせ、みんなが去年の1年の感謝と今年の1年の抱負や祈念、所願成就を願う。

だから仏様のご利益が一人でも多くの方へ渡るように日々精進しながら仏器を磨いています。 

DSC01317.jpg
                    摩利支天堂の荘厳

本年もまた皆様にとって良い年でありますように。  

2014.01.20 Mon l 未分類 l コメント (0) トラックバック (0) l top
1年に1度の水子供養地蔵盆合同法要
平成25年度の水子供養法要は7月24日の午後7時より地蔵盆の日に会式されました。 
普段は個別供養の申し込みが多い延壽院ですが、1年に1度だけ合同法要を行います。
水子供養は老若男女様々な方がお参りされ、今年は150名の方がお参りになられました。 
天国へと向かわれた御精霊にそっと手を合わせ、子供たちに思いを寄せるといった法要です。 
お盆は子供さんにとって一年に一度だけ、仏道から私たちの住む人道へとお戻りになられます。
お盆の時期は一年に一度、親御さまのもとへ帰ってこられ、一緒に過ごせる大切な期間であります。
今回の法要は燈明供養を行いました。燈明供養とはろうそくに思いをのせ自身の気持ちを告げる
贈り物として、又は、仏道から人道に無事にたどりつける様に迷わぬ様に明かりを灯し迎えてあげることです。
ご参列皆様方一人一人のろうそくの明かりが水子さまを照らし、大きな一つの光明祭壇となり、読経供養を厳修いたしました。

水子供養法要

 
水子供養法要

お経を唱える僧侶は200本のろうそくに囲まれながらの読経供養です。
本堂内の室内になりますので僧侶が拝んでいる空間はすごい熱であります。
参列者の皆様方が灯す光明に照らされ、親御さまの思いが厳かで綺麗な光明となりました。


P0022.jpg/" target="_blank">水子供養法要②

境内には各御堂や通路などに行燈の光が灯されます。 ↑

延壽院では親御様と水子さまの拠り所として境内には二つの地蔵堂があります。
ここにも親御さまとお子さんの語らい場として様々な地蔵菩薩さまが建立されています。


水子供養堂



水子地蔵堂3


この地蔵さまは水子供養をされた方が親御さまとお子さんの拠り所としてお使い頂く地蔵堂であります。
参拝なされる多くの方が日々、お花やお供え、線香をお供えしお参りされています。
私が「おはようございます」とお声をかけると住職、お地蔵さん増えましたね。
寂しく思う反面、ここに地蔵さんを建立して温かい気持ちになってきました。
自分の赤ちゃんも友達がたくさんできてると思うと嬉しく何年たっても
自分の顔を子供に見ていただきたいと思っています。
とお話しされると地蔵さんを手に取り、お地蔵さんの顔を布で綺麗に拭いておられました。
そして、お子さんへの人形やお菓子などお供えをされていました。 
私はその時、この地蔵堂は親御さんと水子さん共に供養をされるお堂であると思いました。

「供養」は「共に施す」といいます。相互供養つまりお互いが供養され合って成り立つのです。
我々は手を合わせ、仏様は我々を導き下さいます。
その方は自分のお地蔵様に救われているのです。
来寺される方々皆様一人ひとりの思いが詰まったお地蔵様でございます。
これからもしっかり「大切な地蔵様」「大切な地蔵堂」をお守りして行こうと思いましたので日記に書かせていただきました。



2013.10.11 Fri l 未分類 l コメント (0) トラックバック (0) l top
はじめまして、住職の楠見慈海(くすみ じかい)と申します。
書き込み第一回目です。
これから何か事があればどんどん書き込んでいきたいと思いますので宜しくお願いいたします。

高野山で修行を積み、12年間お世話になり、岩出市の根来寺で修行をし、
現在では和歌山市の寺町真言宗のお寺の住職であります。
普通、住職のイメージとしてはお年を召されている老僧をイメージしますが、私は若僧であります。
私は良くお寺に参拝される方に住職は何歳ですか?と聞かれる事がよくあります。
一般的に若く見られることはありがたい事ではありますが、僧侶としてはどうしても
師僧のようにありがたい僧侶になりたいと日々心がけております。
老僧がけっして僧侶の姿ではないと二人の師僧から教わりました。 
お坊さんの中では珍しい話なのですが、私には二人の師僧がいます。
理不尽に怒られ、良く頭をはたかれたのを覚えています。(笑)
お前の生活態度は僧侶ではないとか言葉遣いが汚いとかお経を読んでも気持ちがこもっていないとか、
供養をなされる方の気持ちになれとか色々怒られました(笑)
住職になってやっと師僧の言葉が頭を響かせます。
私の事を思ってわざときつく怒ってくださり、優しいだけのお坊さんは本当のお坊さんではないのだと
感じました。親がわりである師僧には悪いことも良き事も若い内に自分の思った通りにすすみなさいと言われてきました。
ですから私は時には道をはずしたことや、人に迷惑をかける事がありました。 
良きも悪きも自分で経験をして、全力で叱ってくれる人がいる。だから自分の道を開けているのかもしれない……
善悪を判断できるきっかけ分別を身に感じれるきっかけになったのかもしれない。



第一回目で少し語ってしまいました(笑)見てくださった方お付き合いいただきありがとうございます。









2012.10.06 Sat l 未分類 l コメント (2) トラックバック (0) l top